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網走市民ボランティアバス参加者からの報告 |
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東日本大震災被災地でのボランティア活動を行う「市民ボランティアバス」に参加された方々から、活動状況や被災地を見て感じたことなどをご報告頂きました。 参加者の方々が被災地での活動を通じて見て感じたことは、市民の皆様にとっても学ぶこと、考えさせられることがあると思います。 どうぞご一読下さい。 |
○大塚 寛さん ○新谷 正樹さん ○遠藤 香代子さん |
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○藤森 万徳さん ○石川 玲司さん |
【報告者】 『網走市民ボランティア号・チーム網走の一員として』 大塚 寛 さん 『「つながり」自助・共助の精神が命を救う』 新谷 正樹 さん 『宮古市ボランティア活動報告』 遠藤 香代子 さん |
今回の「網走市民ボランティア号・チーム網走」への参加の動機は、私の長男が岩手県の大学を出て盛岡市で働いているため、ほんの少しでも被災地の皆さんのお役にたてればという思いと、百年に1度の大災害を自分の目で確かめたいという気持からです。 |
自分のためのボランティア活動 |
私は今回の市民ボランティア活動で、被災地の皆さんの少しでもお役にたてればという思いで参加させていただきましたが、ボランティアを体験してみて、自分自身が一番ためになったと感じています。 平成23年3月11日東北地方に百年に一度の大震災が発生したこと、多くの人たちが苦しみに耐えていること、4ヶ月たった今でもボランティアを必要としている人がたくさんいることなど、多くのことを現地で確認し、学ぶことができました。 他の人のために参加したボランティアが、これからの自分に大きな糧となるような気がしています。 |
ボランティアはチームワーク |
私は今回の「網走市民ボランティア号・チーム網走」の一員として参加できたことを誇りに思っています。年齢も職業も違う20人の人たちが、復旧の手助けをしたいという思いで、一丸となって懸命に作業し、多くの方々のお役に立てたことは忘れられない思い出となりました。 |
心に残る一言 |
ボランティア作業3日目は、宮古市津軽石地区の一般住宅の片付け作業を行いました。 宮古市は水産業の盛んな港町で網走市と似ている部分がたくさんあります。 |
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「ここより下に家を建てるな」「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪」。 「チーム網走」20名の1人としてボランティアに参加した。活動場所は岩手県宮古市。 冒頭の言葉は、本州最東端宮古市のとどヶ崎にある石碑の言葉である。1896年、1933年の明治、昭和三陸地震で被災した住民の教えである。今回訪れた宮古市は歴史的に地震・津波の惨禍を受けてきたまちである。 宮古市は人口58,917人、水産業が盛んであり景勝地浄土ヶ浜を有する。今回の震災で死者420名、行方不明者は未だ170名おり、家屋倒壊は4,675棟と大きな被害を受けた。宮古市では大津波の最大波が8,5メートル以上、その遡上高は38,9メートルにも及んだ。その被害は3カ月たった今なお大きな爪痕を残していた。 ボランティアの作業内容は、2日間は側溝の泥だし、最終日は津軽石という地区で津波により被災した家屋の泥や家財道具を運び出す作業であった。 作業を全て終え、「本当に助かりました。ありがとうございました。一生忘れません。元気になったら網走に行きたいです。」と家主さん。 チーム網走で宮古市内のとある居酒屋に行った。そこで居酒屋を経営するお母さん、娘さんから話を伺う。そのお母さんは2人の姉、弟を津波で亡くしたという。 宮古市の田老地区には、高さ10メートル、延長約2,4キロの万里の長城とも言われる防潮堤が存在した。それでも田老地区は壊滅的な被害を受けた。防潮堤があるから大丈夫という油断があったのかもしれないと聞く。 生と死。あの日の真実の話を聞きながら、今回の巨大津波はハード面で被害を全て防ぎきることは到底不可能であったことを改めて痛感する。災害は起こる。その被害を全て防ぐことは出来ない規模で現実に起こってしまった。今回は防波堤や防潮堤など物は命を守ってくれなかった。 岩手県釜石市の奇跡という話がある[i]。約900人(行方不明者359人、7月7日現在)が亡くなった釜石では、小、中学生の生存率99,8%。釜石市では子供を通じての親や地域への防災教育を徹底していた。平時の訓練・教育の大切である。率先避難者たれと、今回の津波でも中学生が大声をだし、自らが逃げるだけでなく、自分よりも小さな子やお年寄りに声をかけ一斉に避難をしたことが「奇跡」をうんだ。 自らの命に責任を持つという自助そして共助の精神が生死を分けた。危機の際には、まずは自助。自らの命を守ることである。 「災害は忘れたころにやってくる」、「地震、雷、火事、おやじ(台風)」という言葉があるように、いつ、どんな災害が起こるかわからない。 阪神・淡路大震災が「ボランティア元年」とも呼ばれているが、今回のボランティア活動で人と人、被災地との「つながり」の大切さを痛感した。現地のボランティア活動のリーダー的存在、宮古市内在住の方にもその居酒屋で話を伺った。被災者と被災地の方々。「何万分の一かもしれないが泥かきや力仕事の一つ一つによって、復旧を感じられる」。「被害はひどいが、それでも前を向いて進んでいくしかない」との話。 居酒屋のお母さんも、店が浸水したが手当たり次第に業者に電話をかけ、早い時期に店を改修し営業を続けているそうだ。 北海道の自治体としては2番目となる「チーム網走」ボランティアバスの運行であった。現地では一定の期間、まとまった人数のボランティアが必要とされている。今回のチーム網走のボランティア活動は現地でも大変喜ばれたようだと後から社協の方から伺った。 それ以上に、今回参加した20名それぞれが被災地、被災地の方々、現地のボランティア仲間、そしてチーム網走の仲間と「つながった」ことが一番重要ではなかっただろうか。 【参考文献】 [i] 2011年致知8月号 片田敏孝「釜石の奇跡は、かくて起こった」(致知出版社)[ii]Journal of FANANCIAL PLANNING 2011年5月号 河田惠昭「「減災」を可能にする人の知恵」(日本FP協会) [iii] 東日本大震災復興構想会議、提言資料編に使用する資料「資料10 関東大震災、阪神・淡路大震災と東日本大震災の死因比較」http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/shiryo.pdf [iv] YOMIURI ONLINE 4月19日「震災死者の92%、津波による水死…警察庁」http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110419-OYT1T00994.htm |
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3.11。その時私はクラスの生徒たちと一緒にいた。入試も無事終わり、あとは卒業式を迎えるばかりの一番楽しい時だった。 揺れる教室、そして生徒たちと見たテレビの報道に愕然とした。 クラス皆で黙とうをし、被災地を思った。全員揃うことのない卒業生、会場の体育館が崩壊し避難所と化した映像。 4日後の15日。クラスが卒業式ができることへの感謝と同時に、この晴れの日を迎えたかった被災地の子どもたちのことが思われてならなかった。 心にそれをずっと引きずっていた。教壇に立ち、話をしていても、自分が被災地のことを知らないことが歯がゆかった。実際にそこに飛び込んで、ほんの少しでも同じ空気を吸い、何かをできないか・・・そんな思いが積もっていたところに、偶然新聞の折り込みに一枚の応募用紙を見つけた。「市民ボランティア募集!!」という感嘆符2個の力強さと、瓦礫の地で、ヘルメット姿でタンスを運ぶイラスト。詳しい行程も情報も分からないが、とにかく「行かなければ後悔する」と心を突き動かされた。 そして同じような心意気を持った20人が集まった! チーム網走の誕生。 活動後連日、そのままバスで津波の被害の大きかった海岸沿いの地区を訪れた。初日の作業後に訪れた鍬ヶ崎。目の前に広がる光景に、私はなかなか現実を受け入れられなかった。バスの中も言葉がなくなり空気が張り詰めた。 次の日には高浜、そして壊滅的被害を受けた山田町まで。バスの中で誰かがつぶやいた。「空襲の後みたいだな・・・」。特に山田町は、火の手が上がっても、断水と交通の寸断で消火活動ができず、火に包まれる町をただ見ていることしかできなかったと聞いた。焦げた建物跡、残った店舗に垂れ下がる無数の配線、あるはずのない場所に転がっている船、おもちゃのようにぺしゃんこに潰れた車たち・・・。 滞在中には個人的にも歩いて回ってみた。宮古市中心部近くは、再興した所と手つかずの所との差が激しい。かたや解体作業で瓦礫を積んだトラックが、かと思えば再建のために木材を積んだトラックが。営業を再開した店の隣に、手つかずの店があったり。 小学校を出て通りを降りてきた。何かの用を足して家に入ろうとする女性に思い切って話しかけてみた。50代ぐらいであろうか。どうやら二週間ほど前に小学校の仮設はできたらしい。この辺の被害は? の問いに「1階はもう水であふれかえりました。今はこんな板でふさぎ、応急処置をしてます(大きなベニヤ板で一階部分を塞いである)。まだ中はぐちゃぐちゃですが、かろうじて2階は免れたので住んでます。ええ、地獄でした。」静かに、優しく、笑みを浮かべてこんなに悲しい話をさらっと言ったのだ。私は何と言葉を返していいのかわからなかった。 3日目の作業は、チーム網走で個人のお宅を任された。ほとんどの家が流され、見晴らしの良すぎる場所、ブロック塀が倒れかけた一軒の家が見えた。スコップや土のう袋を持つ20人を見つけると、静かにその家主さんは近づいてきた。 最終日にしてチームワークは最高潮!この一軒の物だし・泥だしを我らチーム網走で完結させようと、皆の思いは一つになった。 泥棒が入らぬよう釘で打ち付けてあった雨戸を外す。暗く湿った部屋の中には、荒れ狂う津波にもまれ、叩かれ、飲み込まれた家の惨状が眠っていた。まずは物出し。大切かと思う物は家主さんに尋ねるが、「これはうちのじゃないなあ」という物が次々と出てきた。けれど肝心の仏壇などは流されて跡形もなかった。「海の底に沈んだかな・・・」とボソっという家主さんの言葉が痛かった。 休憩時間には家主さんの話を聞いた。「家から見える工業高校に逃げ、初めは2階にいたが、4階へと上がった。学校を囲むフェンスに家がくるくる回ってガンガンと当たる音が聞こえた。」家があんなに簡単に流されるなんて・・・と。家が新しいからとか古いからとかではなく、流されず残ったのは「運としかいいようがない」と遠くを見ながら言った。そんな辛い思いをしながらも「もう一度ここで」という。思い出の地にまた住みたいという家主さんの思いに皆一層力が入る。 周りの様子を見る間もなく土嚢袋に汚泥を入れることに集中、皆もその勢いは加速していった。汚泥に混ざるガラスの破片や木切れ、タオル、小物、食品・・・も、あれよあれよという間に片付き、板の間が見えてきた。2:30無事作業終了! 一軒で300袋必要だという土嚢袋は、結局600袋以上となっていた。通常三日かかると言われる泥出しを一日で終えたチーム網走の底力! やり遂げたという充実感、達成感にあふれていた。 帰ってきても、被災地のことが頭から離れない。なおさら思われる。 また、7月22日には私の学校で、ボランティアや東日本大震災について「社協出前講座」として社協の職員さんが全校生徒を前に話をしてくれた。何と、急きょチーム網走のチームリーダーとメンバーのひとりも駆けつけてくれ、生徒たちにナマの声を届けてくれた。うれしい再会、応援だった。そう、被災地から帰ってからの私達の役割は、こういうことなんだと再認識した。自分たちが見たこと得たことを、次へ、網走市民の皆さんへ発信していく…。 宮古の街のあちこちに力強い言葉が掲げられていた。「明日へ!! ふるさとは負けない」「心ひとつにみんなやすらぐこの町宮古を再び!」「がんばろう宮古」・・・出会った人たちは皆、悲しみを乗り越えた優しい笑顔だった。そして前に進んでいこうという思いが伝わってくる。 三陸鉄道のホーム、七夕飾りの短冊にこんな言葉が書かれていた。「心から笑える日が早くきますように」。・・・被災者の未来が壊れて心を失うことのないように。 私達は自分たちの生活から切り離してはいけない。思い続けること、そして自分にできることは何かを考え、行動していこう。 被災者が必要なことを長期的に続けていく。その先陣を切ったチーム網走。私の学校の今年度の生徒会テーマは「咲絆(きずな)」。被災地と網走市の間に長く美しい絆が咲き続けることを願っている。 チーム網走の皆さん、再興した街に、きっとまた皆で行きましょう。宮古の街の皆さんの「心からの笑顔」に会いに。 「いつかくる きっとくる たとえその日はとおくても きっといい日がやってくる」(宮古市街にあった貼り紙より) |
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【報告者】 『被災地支援ボランティアに参加して』 藤森 万徳 さん 『宮古市被災地支援ボランティアに関する活動報告』 石川 玲司 さん |
もし左手に大火傷をおったとして、それでも人は力をふりしぼり歩くだろう。両方の目でしっかりと見、命をつなぐために食べる。
宮古の市街地は、家屋の損傷痕や損壊跡、一部ついていない信号機もあるけれど生きている。通学や部活する中学生、商店街を行き交う人々、それに応える店主、バスや列車を待つ人混み、馴染みの店に顔を見せる酔客、そして談笑するおかみさん。そこには今回の大震災による大火傷にも息絶えることのない命が脈打っている。 しかし、家並みを一つ一つ眺める時、確かに生きてはいるものの、その痛手、後遺症に心が痛む。「解体OK」と赤い文字で殴り書きされてある建物。息づいている家屋の隣で、建物の基礎だけが剥き出しになって残る空き地。避難後四ヶ月ぶりに帰宅したが、その浸水後の有り様に茫然とする老人。ベニヤ板を打ち付けられ、手で口を塞がれたように立つ家屋。赤枯れ、ただ黙するしかない街路樹。つぶれたガードレールに、半分落ちている橋梁。生きていると感じ、自然や人間の生命力の強さに畏敬の念は抱くものの、震災の爪痕が癒されることはない。 まして、沿岸部に目を転じる時、息は止まり言葉を失う。建物跡の基礎部分だけがひたすらに列をなし、自らの目を疑う。そこに住む人々の生活は、一体どうなったのか。パニックが襲う。大きな工場や倉庫、ビルといったものも、無残な姿を露にしている。壁や窓が突き破られ、屋根が今にも崩れそうに垂れ下がる。どれだけ巨大な津波だったのか。身の毛がよだつ。 しかし、そんな殺伐とした景色の中に、働く人の姿を見つける時、勇気や英気といった身体が熱くなるエネルギーを感じずにはいられない。今にも崩れそうに垂れ下がる屋根の下で作業する人々がいる。壁や窓が突き破られている工場で何かをつくる人々がいる。真新しい木材が立ち並ぶそばでメジャーを伸ばしている人がいる。定置網漁に備えて、網や縄を各々にあるいは二人一組で編んでいる人がいる。働く人々の姿は、今回の震災で、家族をはじめかけがえのないものを失った人々の気持ちを、思いやろうなんて思い上がった自分にすら励ましを与えてくれる。働く姿は美しい。 各仮設住宅地には集会所も設けられている。住民同士のコミュニケーションの場、憩いの場であるとともに大人だけでなく、子どもたちの遊びの場にもなっている。そんな集会所に、音楽家がボランティアコンサートに来ることもある。チェロの切なく哀愁ある響きは、避難生活を余儀なくされている人々の心の傷を癒すように、被災された人々の胸の中に染みわたっていく。目に涙をため、身をのりださんがように聞き入る姿は、これまでの艱難辛苦を咀嚼し、浄化している姿にも見える。音楽という人間の様々な区分けを越えた力の偉大さ、素晴らしさを感じずにはいられない。家屋や工場、道路やそれに関連する設備といった物理的な損壊だけでなく、被災された人々の心のケアについても考えさせられる。 災害は社会的弱者とよばれる方々に程、その大きな影を落とす。今回の地震津波の被害も、いわゆる独居老人といわれるお年寄りに、大きくのしかかった。 若い頃は遠洋漁業船に乗り海外の海でマグロを捕った。晩年は車椅子ながら、一人でも自炊する生活を送っていた。そんなおじいちゃんにも、津波は容赦なく押し寄せた。突然、家の中に侵入してきた津波は、車椅子に乗った胸の高さにまで達するものだった。勿論、車椅子では身動きも、その前の避難も自分一人では覚束ない。幸いその後、津波が、自分のいる部屋のサッシや窓ガラスを打ち破ることはなかった。なので、胸より上は水につかることがなく、一命をとりとめることができた。津波が過ぎ去った後、消防の声が聞こえ、はっていって、サッシのガラスをたたいた。ガラスをたたき助けを求めはしたものの、独居老人である自分の身の上を考える時、今さら自分の命なんてと思え、消防の援助を遮るような言葉も発した。 木造二階建ての二階部分で生活していたおばあちゃんは、津波が来た時も二階にいた。津波は一階部分を完全に襲ったが、二階部分に達することはなかった。それでも、停電となり電話は不通。遠方に住む家族が安否の心配をし、電話するがつながることはない。水の引いたあと、避難所で生活するおばあちゃんを家族が発見することができたのは二週間後だった。遠方の家族の元で避難生活を送り、そろそろ自分の家に戻ろうかと考えたのは、4ヶ月を過ぎてからのこと。戻ってみた家には、津波に荒らされた傷痕が癒えることなく、あちらこちらに見られる。また、水に浸かった我が身の足跡の品々は、その色を失っている。廃棄せざるを得ない品々を見つめるおばあちゃんの瞳。その思いはいかばかりかと思いやられる。 今回のボランティアへの参加に対し、参加費用を義援金として寄付した方が、より被災地支援になるのではないかとの考えも持った。自費にて3万円の交通費、宿泊費などの参加費用プラス現地にてかかる食事代など。その分の金額を募金した方が、より役に立つ支援をしてもらえるのではないかといった何でも金次第という考え。 今は、お金だけでは行き届かないボランティアの必要性、ニーズがあると実感する。それは、ほんの些細な行為なのかもしれない。濡れた畳を出す、集会所の鍵を開ける、庭を覆うヘドロを取り除くなど。しかし、それらは何れも人の手のいる仕事、マンパワー。お金をかけたとしても、それらの仕事を細部にわたって行うことは至難の技だろう。お金だけではなく、人の力も必要なのだ。 その人の力を最大限に活かし、被災した地域の人々に役立てるには、ボランティアのニーズを把握し、適切に人員配置できる仕組みが欠かせない。社会福祉協議会という存在が扇の要となってはじめて多くの有用なボランティア活動を生み出すことだろう。今回のボランティア参加で有意義な活動を見いだせたのは、まさしく要となった社会福祉協議会の存在があったからに他ならない。 網走市社会福祉協議会のボランティアへの参加呼びかけ並びに手配がなければ、被災地に行き、支援ボランティアの活動をすることはできなかっただろう。とても遠く離れた土地勘もない場所に、自分一人でボランティアに行けるほどの力はない。 また網走市による助成金制度がなければ、決して少額とはいえない費用の前で思案を繰り返していたに違いない。助成金の支給が背中を押してくれ、最初の一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。 この場をおかりして、網走市社会福祉協議会並びに網走市の関係各位に心より御礼申し上げたい。本当ありがとうございました。 最後に、被災地の一日も早い復興・復旧を願い、結びとする。 つながろう日本! がんばろう日本! |
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3月11日に発生した東日本大震災。4ヶ月以上経過したが、7月28日〜8月1日にかけ宮古市で被災地支援ボランティアに参加した。一緒に行くメンバーは大半が顔見知りで、初対面の方々ともそう時間がかからずに徐々に打ち解けた。 被災地支援初日 個人住宅の泥出し作業 宮古市のボランティアセンターに到着すると、ボランティアで来ている北海道恵庭市の社協の方が対応してくれた。ここに来て「北海道」と聞くと何故か安心した気持ちになる。 田老地区視察 初日の作業が少し早めに終わったこともあり、出発前に網走で聞いていた津波の被害を多大に受けた壊滅状態の田老地区に視察へ向かった。 被災地支援二日目 仮設住宅にてサロン 7月30日二日目。この日の天気もあまり良くない。この日は前日に言われていた仮設住宅でのサロンボランティアだ。とはいえ何をするのか最初は理解できなかった。朝、ボランティアセンターに行くと土曜日ということもあって沢山の地元の高校生なども集まっていた。そして、女性ほど髪の長い全身黒の衣服をまとった男性が現れた。一目ですぐ解った。彼が有名な千葉君だ。網走で行われた事前説明会でも彼に会うといいって言っていた彼だ。 被災地支援二日目 懇親会 千葉君に紹介された居酒屋で懇親会を行った。地元の食材がある居酒屋だ。網走のメンバーもボランティア活動の話題で花が咲く。しばらくしてから千葉君が現れた。いろいろ対応に忙しいようだ。そして、乾杯を行いいろいろ千葉君に宮古市の震災から今までの話を聞く。地震があり津波があった直後の話は本当に大変だったようだ。津波の被害にあわれた方々の話、その直後は足元に被災にあわれた方の死体もあったそうだ。 被災地支援三日目 個人住宅の家回り泥出し作業 ボランティア最終日は、宮古市中心街から少し離れた高浜地区にあるお宅の家の回りの泥出し作業だ。 終わりに なんとか事故もなく三日間のボランティア活動が終えることができた。 被災地支援ボランティアに参加して、これから生きていく上で多くのことを身体で感じることができたような気がする。 最後になりますが、今回一緒に参加したメンバーに心より感謝を申し上げ、宮古市被災地支援ボランティア活動に関する活動報告に致します。 |
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社会福祉法人 網走市社会福祉協議会 〒093-0061 北海道網走市北11条東1丁目10番地 網走市総合福祉センター 内 電話: (0152) 43-2472 ファックス: (0152) 43-3919 Eメール:a432472@herb.ocn.ne.jp |
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