網走市民ボランティアバス参加者からの報告



被災地ボランティア活動を終えて


 東日本大震災被災地でのボランティア活動を行う「市民ボランティアバス」に参加された方々から、活動状況や被災地を見て感じたことなどをご報告頂きました。
 参加者の方々が被災地での活動を通じて見て感じたことは、市民の皆様にとっても学ぶこと、考えさせられることがあると思います。
 どうぞご一読下さい。


INDEX
「網走市民ボランティア」第1陣参加者からの報告 大塚 寛さん
新谷 正樹さん
遠藤 香代子さん
「網走市民ボランティア」第1陣参加者からの報告 藤森 万徳さん
石川 玲司さん




「網走市民ボランティア」第1陣に参加された方々
岩手県宮古市 平成23年6月27日(月)〜7月1日(金)
 
 【報告者】
 
   『網走市民ボランティア号・チーム網走の一員として』  大塚 寛 さん
 
   『「つながり」自助・共助の精神が命を救う』  新谷 正樹 さん
 
   『宮古市ボランティア活動報告』  遠藤 香代子 さん
 



網走市民ボランティア号・チーム網走の一員として
大塚 寛さん
 

 今回の「網走市民ボランティア号・チーム網走」への参加の動機は、私の長男が岩手県の大学を出て盛岡市で働いているため、ほんの少しでも被災地の皆さんのお役にたてればという思いと、百年に1度の大災害を自分の目で確かめたいという気持からです。
 被災地でのボランティア活動に個人として参加することは非常に難しいことですから、今回の市民ボランティアに参加できたことを大変うれしく思うとともに、主催された網走市社会福祉協議会の皆様に感謝申し上げます。
 今回のボランティア活動
3日間の作業内容は、宮古市内の比較的津波による浸水の少ない地域における排水溝の泥の除去を2日間、津波によって一階が冠水した個人住宅の家財道具の運び出しと家の中の堆積物の除去を1日行いました。
 天気予報では雨が予想されましたが、作業中は雨にあたることもなく、予想以上の成果を上げることができました。しかしその分、気温が高かったため体力の消耗が結構激しく、ボランティア活動は体力勝負であることを痛感しました。
 

自分のためのボランティア活動
 私は今回の市民ボランティア活動で、被災地の皆さんの少しでもお役にたてればという思いで参加させていただきましたが、ボランティアを体験してみて、自分自身が一番ためになったと感じています。
 平成
23311日東北地方に百年に一度の大震災が発生したこと、多くの人たちが苦しみに耐えていること、4ヶ月たった今でもボランティアを必要としている人がたくさんいることなど、多くのことを現地で確認し、学ぶことができました。
 他の人のために参加したボランティアが、これからの自分に大きな糧となるような気がしています。
 
ボランティアはチームワーク

私は今回の「網走市民ボランティア号・チーム網走」の一員として参加できたことを誇りに思っています。年齢も職業も違う20人の人たちが、復旧の手助けをしたいという思いで、一丸となって懸命に作業し、多くの方々のお役に立てたことは忘れられない思い出となりました。
 
チームリーダーの指揮のもと若く力のある者、熟練作業を得意とする者、細かい丁寧な仕上げをする者など「チーム網走」は素晴らしいチームワークで作業を行い、当初、予定していた倍以上の作業を完了し、大きな成果を上げることができました。
 「チーム網走」は網走に帰着して解散となりましたが、同じ志を持った仲間としてこれからも関わっていきたいと思います。
 

心に残る一言

 ボランティア作業3日目は、宮古市津軽石地区の一般住宅の片付け作業を行いました。
 その集落は
27戸ありましたが、津波でほとんどの家が流され3戸しか残っていません。その中の1戸ですが、1階部分は津波で冠水し、水につかった家財道具と流れてきた汚泥とゴミで手の付けられない状態でした。
 チーム網走の
20人は何とかきれいに片づけたいという思いで休憩を減らし、必死で作業を進め予定の時間にはすべての作業を終了しました。家主のお父さんは最初作業を見ているだけでしたが、後半は我々と一緒になって作業に取り組んでいただきました。
 作業を終了し、お父さんから一言いただきました。
 「網走から来ていただいた皆さんから、このようなご支援をいただき感謝の気持ちでいっぱいです。このご恩は一生忘れることはありません。」我々の疲れが、一変でなくなった一言でした。
 その後、お父さんは我々の乗ったバスが見えなくなるまで、手を振ってくれました。

 宮古市は水産業の盛んな港町で網走市と似ている部分がたくさんあります。
 宮古市の人口は約
6万人で震災による死者・行方不明者は約600人、世帯数は25000戸で家屋倒壊数は約5000戸に及んでいます。
 避難所で話を聞いたところ「これほどの津波がやってくるとは思いもしなかった。」「最初の津波が
50p程度だったため、自宅に戻ってしまった者もいた。」「車に老人や子供を乗せて避難しようとしたが、逃げ遅れてしまった。」など、網走市に住んでいる我々も教訓にすべきお話をたくさん聞くことができました。
 地震や津波などによる震災をなくすことはできませんが、震災被害を少なくすることはできるはずです。網走市民一人一人が常日頃から防災意識をもって生活することが何よりも大切だと思いました。

 

 今回のボランティア体験は大変でしたが、それ以上のやりがいを感じました。
 被災地の情報はだんだん少なくなっていきますが、被災地の復興への道のりは遠く、まだまだ多くのボランティアの力を必要としています。是非、「網走市民ボランティア号・チーム網走」を第
2陣、第3陣と継続していただきたいと思います。



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網走市民ボランティア号・チーム網走の一員として
大塚 寛さん
 
 「ここより下に家を建てるな」「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪」。
 「チーム網走」20名の1人としてボランティアに参加した。活動場所は岩手県宮古市。
 冒頭の言葉は、本州最東端宮古市の
とどヶ崎にある石碑の言葉である。1896年、1933年の明治、昭和三陸地震で被災した住民の教えである。今回訪れた宮古市は歴史的に地震・津波の惨禍を受けてきたまちである。

 宮古市は人口58,917人、水産業が盛んであり景勝地浄土ヶ浜を有する。今回の震災で死者420名、行方不明者は未だ170名おり、家屋倒壊は4,675棟と大きな被害を受けた。宮古市では大津波の最大波が85メートル以上、その遡上高は389メートルにも及んだ。その被害は3カ月たった今なお大きな爪痕を残していた。

ボランティアの作業内容は、2日間は側溝の泥だし、最終日は津軽石という地区で津波により被災した家屋の泥や家財道具を運び出す作業であった。
 
家主さんによると、周囲に30軒ほどあった家が、津波により流されたり、住む事が不可能となり解体したことで、今では3軒になったという。10人ほどは亡くなったのではないかとのこと。
 家の中は凄惨な光景が広がる。砂、泥が家じゅうに広がり、どこからか流されてきた漂流物と家の物が混ざり、奥の部屋では天井まで物が積み上がっている。
2階ぎりぎりの所まで波が来た跡がはっきりとわかる。天井はめくれあがり、津波の力、凄さを目の当りにする。外部から見ただけではわからない。ボランティアに参加し、実際に泥、家財道具を運びださなければわからない世界である。家の中に溜まった砂、泥はどのう袋にして600個以上、泥を被った畳、布団、冷蔵庫、など家財道具も全て運び出す。決して楽な作業ではない。一人、二人では気が遠くなるような作業内容である。これが被災地の現実であることを感じた。

作業を全て終え、「本当に助かりました。ありがとうございました。一生忘れません。元気になったら網走に行きたいです。」と家主さん。
 皆なんともいえない達成感を感じた。しかし眼前には被害の「現実」がまだ山のように存在する。被災地の現実の前には時折無力感を抱く。しかし、一歩一歩進んで行くしか復興の道はない。無力感と少しの達成感、矛盾した感情を抱きながらそれでも家主さんの「ありがとう」の言葉に逆に励まされ、生きる力を与えられ、津軽石を後にした。

 
 危機の際に生死を分けたものとは何か。
 津軽石の家主さんによると、近所の方が小さな子供2人を連れた若い奥さんに「津波が来るから車に乗れ」と声をかけたそうだ。その奥さんは「家の2階に避難するから大丈夫です」といって断った。その3人は津波で全員亡くなった。声をかけた方は今でも自責の念にかられているという。助けられた命、助けられなかった命、まさに生と死がその一瞬にかかっていた。

チーム網走で宮古市内のとある居酒屋に行った。そこで居酒屋を経営するお母さん、娘さんから話を伺う。そのお母さんは2人の姉、弟を津波で亡くしたという。
 姉は津波を見に行って、弟は消防の方を呼びとめに行く途中に流されたらしい。
 遺体はまだ1人しか見つかっていない。地震直後、津波は35メートルだとアナウンスされた。津波は大丈夫だという安心感がどこかにあったのではないか、との話。

宮古市の田老地区には、高さ10メートル、延長約24キロの万里の長城とも言われる防潮堤が存在した。それでも田老地区は壊滅的な被害を受けた。防潮堤があるから大丈夫という油断があったのかもしれないと聞く。

生と死。あの日の真実の話を聞きながら、今回の巨大津波はハード面で被害を全て防ぎきることは到底不可能であったことを改めて痛感する。災害は起こる。その被害を全て防ぐことは出来ない規模で現実に起こってしまった。今回は防波堤や防潮堤など物は命を守ってくれなかった。
 「津波てんでんこ」、とは東北地方に伝わる言葉である。津波が来たら「てんでばらばらに」逃げないと家族や地域が全滅してしまう、という言い伝えである。「てんでばらばらに」逃げないとどうなったか。今回の震災では、それは死を意味した。自分の命は自分で守らなければならない。他人や「もの」に任せてはならない。

岩手県釜石市の奇跡という話がある[i]。約900人(行方不明者359人、77日現在)が亡くなった釜石では、小、中学生の生存率998%。釜石市では子供を通じての親や地域への防災教育を徹底していた。平時の訓練・教育の大切である。率先避難者たれと、今回の津波でも中学生が大声をだし、自らが逃げるだけでなく、自分よりも小さな子やお年寄りに声をかけ一斉に避難をしたことが「奇跡」をうんだ。

自らの命に責任を持つという自助そして共助の精神が生死を分けた。危機の際には、まずは自助。自らの命を守ることである。
 そして、隣近所や地域のお年寄りなど「共に助かる、共に助け合う」共助の防災教育を徹底していかなければならない。阪神・淡路大震災で自力脱出困難者の35,000人のうち、77%が近隣住民等により救出されたと復興構想会議メンバーの河田氏は指摘する
[ii]。まさに共助の重要性が見えてくる。

「災害は忘れたころにやってくる」、「地震、雷、火事、おやじ(台風)」という言葉があるように、いつ、どんな災害が起こるかわからない。
 
関東大震災では105,000人が死亡、死因の87%は火災、阪神・淡路大震災では約6,500人が死亡したが、83%は家屋の倒壊による[iii]。東日本大震災では15,000人が亡くなり、行方不明が5,000人、そのうち津波による水死が90%以上だという[iv]。様々な災害が起こりうる。
 私たちはそういった危機と常に隣り合わせで生きている。いかにして自助、共助の仕組みを作っていくかが「減災社会」において必要不可欠であると強く思う。

阪神・淡路大震災が「ボランティア元年」とも呼ばれているが、今回のボランティア活動で人と人、被災地との「つながり」の大切さを痛感した。現地のボランティア活動のリーダー的存在、宮古市内在住の方にもその居酒屋で話を伺った。被災者と被災地の方々。「何万分の一かもしれないが泥かきや力仕事の一つ一つによって、復旧を感じられる」。「被害はひどいが、それでも前を向いて進んでいくしかない」との話。

居酒屋のお母さんも、店が浸水したが手当たり次第に業者に電話をかけ、早い時期に店を改修し営業を続けているそうだ。
 「津波で店は浸水し兄弟も亡くした。一時は営業を辞めようかとも思ったが、前向きに考えて私は店を続けていく」とお母さん。
 お二人とも網走からボランティアに来てくれたことを大変喜んでくれた。人と人とのつながりを感じた瞬間であった。

北海道の自治体としては2番目となる「チーム網走」ボランティアバスの運行であった。現地では一定の期間、まとまった人数のボランティアが必要とされている。今回のチーム網走のボランティア活動は現地でも大変喜ばれたようだと後から社協の方から伺った。

それ以上に、今回参加した20名それぞれが被災地、被災地の方々、現地のボランティア仲間、そしてチーム網走の仲間と「つながった」ことが一番重要ではなかっただろうか。
 人と人との「つながり」。そこから復旧・復興、そして安全なまちづくり全てが始まる。地域でのつながり、被災地とのつながり、社協や行政とのつながり、
そういった他者との日頃からの「つながり」がいかに危機に際して重要であるかということである。
 自分が助かること、そして近所や地域としていかに被害を最小限に食い止めるか、共に助かるか。その仕組みを普段からどう構築していくか。「津波てんでんこ」、自助共助の精神が命を救うこと、そして人と人との「つながり」を身にしみて感じた被災地でのボランティア活動であった。


【参考文献】
[i] 2011年致知8月号 片田敏孝「釜石の奇跡は、かくて起こった」(致知出版社)[ii]Journal of FANANCIAL PLANNING 20115月号 河田惠昭「「減災」を可能にする人の知恵」(日本FP協会)
[iii] 東日本大震災復興構想会議、提言資料編に使用する資料「資料10 関東大震災、阪神・淡路大震災と東日本大震災の死因比較」http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/shiryo.pdf
[iv] YOMIURI ONLINE 419日「震災死者の92%、津波による水死…警察庁」http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110419-OYT1T00994.htm


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網走市民ボランティア号・チーム網走の一員として
大塚 寛さん
 
 3.11。その時私はクラスの生徒たちと一緒にいた。入試も無事終わり、あとは卒業式を迎えるばかりの一番楽しい時だった。
 揺れる教室、そして生徒たちと見たテレビの報道に愕然とした。

 
 クラス皆で黙とうをし、被災地を思った。全員揃うことのない卒業生、会場の体育館が崩壊し避難所と化した映像。

 4日後の15日。クラスが卒業式ができることへの感謝と同時に、この晴れの日を迎えたかった被災地の子どもたちのことが思われてならなかった。

 心にそれをずっと引きずっていた。教壇に立ち、話をしていても、自分が被災地のことを知らないことが歯がゆかった。実際にそこに飛び込んで、ほんの少しでも同じ空気を吸い、何かをできないか・・・そんな思いが積もっていたところに、偶然新聞の折り込みに一枚の応募用紙を見つけた。「市民ボランティア募集!!」という感嘆符2個の力強さと、瓦礫の地で、ヘルメット姿でタンスを運ぶイラスト。詳しい行程も情報も分からないが、とにかく「行かなければ後悔する」と心を突き動かされた。

 そして同じような心意気を持った20人が集まった! チーム網走の誕生。

活動後連日、そのままバスで津波の被害の大きかった海岸沿いの地区を訪れた。初日の作業後に訪れた鍬ヶ崎。目の前に広がる光景に、私はなかなか現実を受け入れられなかった。バスの中も言葉がなくなり空気が張り詰めた。
 
 「解体OK」「撤去OK」と書かれた家、ボキッと折れた電柱が転がっている。皮肉なほど穏やかな海…。集められた瓦礫の山を見ていると、悲鳴が聞こえてくるようだった。失われた日常を思い胸が苦しくなる。無情なカラスが上空を舞っていた。作業が終われば暖かい布団に普通に寝られるというのが本当に申し訳なく思った。なかなか眠れなかった。

次の日には高浜、そして壊滅的被害を受けた山田町まで。バスの中で誰かがつぶやいた。「空襲の後みたいだな・・・」。特に山田町は、火の手が上がっても、断水と交通の寸断で消火活動ができず、火に包まれる町をただ見ていることしかできなかったと聞いた。焦げた建物跡、残った店舗に垂れ下がる無数の配線、あるはずのない場所に転がっている船、おもちゃのようにぺしゃんこに潰れた車たち・・・。

滞在中には個人的にも歩いて回ってみた。宮古市中心部近くは、再興した所と手つかずの所との差が激しい。かたや解体作業で瓦礫を積んだトラックが、かと思えば再建のために木材を積んだトラックが。営業を再開した店の隣に、手つかずの店があったり。
 
 最終日の朝、気になっていた高台の学校、鍬ヶ崎の近くにある愛宕小学校まで足をのばしてみた。グランドには仮設住宅が広がっていた。「仮設団地案内図」の看板が立つ。収集所にゴミを出しに来る、どこにでもある朝の風景が見られ、ここが小学校のグランドということを忘れてしまいそうだが、狭い空間に同じ型が無機質に並び、家の顔である玄関が色もなく無表情に連なるのを見ていると、「仮設」であることを思い知らされる。私はゴミ出しにきた方に声をかけることができなかった。

 小学校を出て通りを降りてきた。何かの用を足して家に入ろうとする女性に思い切って話しかけてみた。50代ぐらいであろうか。どうやら二週間ほど前に小学校の仮設はできたらしい。この辺の被害は? の問いに「1階はもう水であふれかえりました。今はこんな板でふさぎ、応急処置をしてます(大きなベニヤ板で一階部分を塞いである)。まだ中はぐちゃぐちゃですが、かろうじて2階は免れたので住んでます。ええ、地獄でした。」静かに、優しく、笑みを浮かべてこんなに悲しい話をさらっと言ったのだ。私は何と言葉を返していいのかわからなかった。
 娘さんの家に避難して無事だったという女性は、「でも私たちなんかより、この先の鍬ヶ崎の人たちは、ホントに大変な被害でね・・・」。網走からボランティアで来ていること、今日帰ることを告げた。朝から失礼な話をしてしまった私に、「ご苦労様、ありがとうございます」と言って頭を下げてくれた。

 
 2日目終了後支援センター本部に戻ると、個人ボランティアの人たちがミーティングをしていた。話を聞いていると「明日のボランティアはないので皆さん休んで下さい。」と言われていた・・・。やる気があって来ているにもかかわらず、活動できない。彼らは翌日自力で他市のボランティアに行ったようだった。翌日私達が行った津軽石地区では手つかずの所が多く、「必要ない」どころか多くの人手を必要とする所だった。 

3日目の作業は、チーム網走で個人のお宅を任された。ほとんどの家が流され、見晴らしの良すぎる場所、ブロック塀が倒れかけた一軒の家が見えた。スコップや土のう袋を持つ20人を見つけると、静かにその家主さんは近づいてきた。

最終日にしてチームワークは最高潮!この一軒の物だし・泥だしを我らチーム網走で完結させようと、皆の思いは一つになった。

泥棒が入らぬよう釘で打ち付けてあった雨戸を外す。暗く湿った部屋の中には、荒れ狂う津波にもまれ、叩かれ、飲み込まれた家の惨状が眠っていた。まずは物出し。大切かと思う物は家主さんに尋ねるが、「これはうちのじゃないなあ」という物が次々と出てきた。けれど肝心の仏壇などは流されて跡形もなかった。「海の底に沈んだかな・・・」とボソっという家主さんの言葉が痛かった。

 休憩時間には家主さんの話を聞いた。「家から見える工業高校に逃げ、初めは2階にいたが、4階へと上がった。学校を囲むフェンスに家がくるくる回ってガンガンと当たる音が聞こえた。」家があんなに簡単に流されるなんて・・・と。家が新しいからとか古いからとかではなく、流されず残ったのは「運としかいいようがない」と遠くを見ながら言った。そんな辛い思いをしながらも「もう一度ここで」という。思い出の地にまた住みたいという家主さんの思いに皆一層力が入る。
 
 追加、追加の土のう袋。午後からもっと暑くなるのでは、と心配していたが、海風が出てきた。午後1:00作業再開。残された時間は一時間。間に合うのか!? 全員集合し、チームリーダーから指示が出る。昨日の泊まった部屋ごとに分業することに。奥の風呂場・トイレ、手前の部屋、台所など。よしきた、絶対に終わらせるぞ! 皆無言で作業を進める。女性二人はまず台所を担当した。海と平行の方向にあるからか、たくさんの皿は不思議なことに一枚も割れていなかった。深いシンクには泥土が厚く溜まっていた。
 
 ・・・ふと気が付くと、家主さんも作業に加わってくれているではないか! 一緒に土のう袋を運んでくれている。そして我々の必死の作業に、引率の社協の職員さんが本部に延長を願い出てくれた。何が何でも終わらせてやる!という漲る気魄に包まれた30分となった。

 周りの様子を見る間もなく土嚢袋に汚泥を入れることに集中、皆もその勢いは加速していった。汚泥に混ざるガラスの破片や木切れ、タオル、小物、食品・・・も、あれよあれよという間に片付き、板の間が見えてきた。2:30無事作業終了! 一軒で300袋必要だという土嚢袋は、結局600袋以上となっていた。通常三日かかると言われる泥出しを一日で終えたチーム網走の底力! やり遂げたという充実感、達成感にあふれていた。
 
 最後に家主さんと記念撮影。「こういう形でみなさんとは縁があったわけですが、網走のことは一生忘れません」という最高のことばを頂いた。

 
 20人はこの5日間で皆同じ方向を向き、同じ熱さになっていた。バスの運転手さんも含め、最高のメンバー、最高のチームワークだったのでは? と自負してしまおう。最高の仲間と共に、被災地での充実した活動をさせてもらったことは私の誇りであり、財産です! 

 帰ってきても、被災地のことが頭から離れない。なおさら思われる。
 7月の意見交換会では、先陣を切った私達チームが、参加して気づいたことや、2陣に向けてのアドバイスなどを出し合った。「もっとニーズはあるはず」との意見を受けて、現地入りしていた網走社協の方の頑張りで、被害のひどかった地域に聞き取りを行ってくれたそうだ。遠慮をして自分からは進んでお願いできない人も、きっと作業を頼めたのではないだろうか。ボランティアの手が、必要な場所に届くだろうことを聞いて本当にうれしく思う。

 また、7月22日には私の学校で、ボランティアや東日本大震災について「社協出前講座」として社協の職員さんが全校生徒を前に話をしてくれた。何と、急きょチーム網走のチームリーダーとメンバーのひとりも駆けつけてくれ、生徒たちにナマの声を届けてくれた。うれしい再会、応援だった。そう、被災地から帰ってからの私達の役割は、こういうことなんだと再認識した。自分たちが見たこと得たことを、次へ、網走市民の皆さんへ発信していく…。

宮古の街のあちこちに力強い言葉が掲げられていた。「明日へ!! ふるさとは負けない」「心ひとつにみんなやすらぐこの町宮古を再び!」「がんばろう宮古」・・・出会った人たちは皆、悲しみを乗り越えた優しい笑顔だった。そして前に進んでいこうという思いが伝わってくる。

三陸鉄道のホーム、七夕飾りの短冊にこんな言葉が書かれていた。「心から笑える日が早くきますように」。・・・被災者の未来が壊れて心を失うことのないように。 

私達は自分たちの生活から切り離してはいけない。思い続けること、そして自分にできることは何かを考え、行動していこう。

被災者が必要なことを長期的に続けていく。その先陣を切ったチーム網走。私の学校の今年度の生徒会テーマは「咲絆(きずな)」。被災地と網走市の間に長く美しい絆が咲き続けることを願っている。

 チーム網走の皆さん、再興した街に、きっとまた皆で行きましょう。宮古の街の皆さんの「心からの笑顔」に会いに。

 「いつかくる きっとくる たとえその日はとおくても きっといい日がやってくる」(宮古市街にあった貼り紙より)



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網走市民ボランティア第2陣に参加された方からの報告
【活動地域】 岩手県宮古市 【活動期間】 7月28日(木)〜8月1日(金)
 
 【報告者】
 
   『被災地支援ボランティアに参加して』  藤森 万徳 さん
 
   『宮古市被災地支援ボランティアに関する活動報告』  石川 玲司 さん
 



被災地支援ボランティアに参加して
被災地支援ボランティアに参加して
 
 もし左手に大火傷をおったとして、それでも人は力をふりしぼり歩くだろう。両方の目でしっかりと見、命をつなぐために食べる。

宮古の市街地は、家屋の損傷痕や損壊跡、一部ついていない信号機もあるけれど生きている。通学や部活する中学生、商店街を行き交う人々、それに応える店主、バスや列車を待つ人混み、馴染みの店に顔を見せる酔客、そして談笑するおかみさん。そこには今回の大震災による大火傷にも息絶えることのない命が脈打っている。

しかし、家並みを一つ一つ眺める時、確かに生きてはいるものの、その痛手、後遺症に心が痛む。「解体OK」と赤い文字で殴り書きされてある建物。息づいている家屋の隣で、建物の基礎だけが剥き出しになって残る空き地。避難後四ヶ月ぶりに帰宅したが、その浸水後の有り様に茫然とする老人。ベニヤ板を打ち付けられ、手で口を塞がれたように立つ家屋。赤枯れ、ただ黙するしかない街路樹。つぶれたガードレールに、半分落ちている橋梁。生きていると感じ、自然や人間の生命力の強さに畏敬の念は抱くものの、震災の爪痕が癒されることはない。

まして、沿岸部に目を転じる時、息は止まり言葉を失う。建物跡の基礎部分だけがひたすらに列をなし、自らの目を疑う。そこに住む人々の生活は、一体どうなったのか。パニックが襲う。大きな工場や倉庫、ビルといったものも、無残な姿を露にしている。壁や窓が突き破られ、屋根が今にも崩れそうに垂れ下がる。どれだけ巨大な津波だったのか。身の毛がよだつ。

しかし、そんな殺伐とした景色の中に、働く人の姿を見つける時、勇気や英気といった身体が熱くなるエネルギーを感じずにはいられない。今にも崩れそうに垂れ下がる屋根の下で作業する人々がいる。壁や窓が突き破られている工場で何かをつくる人々がいる。真新しい木材が立ち並ぶそばでメジャーを伸ばしている人がいる。定置網漁に備えて、網や縄を各々にあるいは二人一組で編んでいる人がいる。働く人々の姿は、今回の震災で、家族をはじめかけがえのないものを失った人々の気持ちを、思いやろうなんて思い上がった自分にすら励ましを与えてくれる。働く姿は美しい。

各仮設住宅地には集会所も設けられている。住民同士のコミュニケーションの場、憩いの場であるとともに大人だけでなく、子どもたちの遊びの場にもなっている。そんな集会所に、音楽家がボランティアコンサートに来ることもある。チェロの切なく哀愁ある響きは、避難生活を余儀なくされている人々の心の傷を癒すように、被災された人々の胸の中に染みわたっていく。目に涙をため、身をのりださんがように聞き入る姿は、これまでの艱難辛苦を咀嚼し、浄化している姿にも見える。音楽という人間の様々な区分けを越えた力の偉大さ、素晴らしさを感じずにはいられない。家屋や工場、道路やそれに関連する設備といった物理的な損壊だけでなく、被災された人々の心のケアについても考えさせられる。

災害は社会的弱者とよばれる方々に程、その大きな影を落とす。今回の地震津波の被害も、いわゆる独居老人といわれるお年寄りに、大きくのしかかった。

若い頃は遠洋漁業船に乗り海外の海でマグロを捕った。晩年は車椅子ながら、一人でも自炊する生活を送っていた。そんなおじいちゃんにも、津波は容赦なく押し寄せた。突然、家の中に侵入してきた津波は、車椅子に乗った胸の高さにまで達するものだった。勿論、車椅子では身動きも、その前の避難も自分一人では覚束ない。幸いその後、津波が、自分のいる部屋のサッシや窓ガラスを打ち破ることはなかった。なので、胸より上は水につかることがなく、一命をとりとめることができた。津波が過ぎ去った後、消防の声が聞こえ、はっていって、サッシのガラスをたたいた。ガラスをたたき助けを求めはしたものの、独居老人である自分の身の上を考える時、今さら自分の命なんてと思え、消防の援助を遮るような言葉も発した。

木造二階建ての二階部分で生活していたおばあちゃんは、津波が来た時も二階にいた。津波は一階部分を完全に襲ったが、二階部分に達することはなかった。それでも、停電となり電話は不通。遠方に住む家族が安否の心配をし、電話するがつながることはない。水の引いたあと、避難所で生活するおばあちゃんを家族が発見することができたのは二週間後だった。遠方の家族の元で避難生活を送り、そろそろ自分の家に戻ろうかと考えたのは、4ヶ月を過ぎてからのこと。戻ってみた家には、津波に荒らされた傷痕が癒えることなく、あちらこちらに見られる。また、水に浸かった我が身の足跡の品々は、その色を失っている。廃棄せざるを得ない品々を見つめるおばあちゃんの瞳。その思いはいかばかりかと思いやられる。

今回のボランティアへの参加に対し、参加費用を義援金として寄付した方が、より被災地支援になるのではないかとの考えも持った。自費にて3万円の交通費、宿泊費などの参加費用プラス現地にてかかる食事代など。その分の金額を募金した方が、より役に立つ支援をしてもらえるのではないかといった何でも金次第という考え。

今は、お金だけでは行き届かないボランティアの必要性、ニーズがあると実感する。それは、ほんの些細な行為なのかもしれない。濡れた畳を出す、集会所の鍵を開ける、庭を覆うヘドロを取り除くなど。しかし、それらは何れも人の手のいる仕事、マンパワー。お金をかけたとしても、それらの仕事を細部にわたって行うことは至難の技だろう。お金だけではなく、人の力も必要なのだ。

その人の力を最大限に活かし、被災した地域の人々に役立てるには、ボランティアのニーズを把握し、適切に人員配置できる仕組みが欠かせない。社会福祉協議会という存在が扇の要となってはじめて多くの有用なボランティア活動を生み出すことだろう。今回のボランティア参加で有意義な活動を見いだせたのは、まさしく要となった社会福祉協議会の存在があったからに他ならない。

網走市社会福祉協議会のボランティアへの参加呼びかけ並びに手配がなければ、被災地に行き、支援ボランティアの活動をすることはできなかっただろう。とても遠く離れた土地勘もない場所に、自分一人でボランティアに行けるほどの力はない。

また網走市による助成金制度がなければ、決して少額とはいえない費用の前で思案を繰り返していたに違いない。助成金の支給が背中を押してくれ、最初の一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。

この場をおかりして、網走市社会福祉協議会並びに網走市の関係各位に心より御礼申し上げたい。本当ありがとうございました。

 最後に、被災地の一日も早い復興・復旧を願い、結びとする。

つながろう日本! がんばろう日本!
 



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被災地支援ボランティアに参加して
被災地支援ボランティアに参加して
 

 3月11日に発生した東日本大震災。4ヶ月以上経過したが、7月28日〜8月1日にかけ宮古市で被災地支援ボランティアに参加した。一緒に行くメンバーは大半が顔見知りで、初対面の方々ともそう時間がかからずに徐々に打ち解けた。
 7月28日12時、エコーセンターを出発。苫小牧よりフェリーに乗り、八戸から宮古へバスで移動する。高速道路を盛岡まで走りそこから国道106号線を走る。
 宮古市の看板が見えてきた。心のどこかで宮古市=被災地の光景を描いていたが、そんな光景は見えない。青々とした風景、その脇を宮古市まで閉伊川が流れ静かな景色が温かくさえ見えた。そして、宮古市中心へとバスは進み中央商店街らしきものが見えてきた。大漁旗が何旗もその中央に飾られ、その先に中央商店街が広がる。網走よりも活気があるようにさえ見え、とても印象的だった。
 さらに進むと右前方に5階建ての宮古市役所が現れた。1階と2階の壁にはコンパネで補修されており、その奥に先ほどの閉伊川下流が見えた。津波が2階まで達したことが一目で解る。そしてバスから見える両脇を見ていくと、被災した建物が解体撤去され基礎だけとなっている個所が随所にある。また、建物をよく見ると壁やシャッターに赤のスプレーで「解体OK」と書かれている解体待ちの建物も複数見られ、その場所を通り抜け宮古市のボランティアセンターへ向かった。

被災地支援初日 個人住宅の泥出し作業

 宮古市のボランティアセンターに到着すると、ボランティアで来ている北海道恵庭市の社協の方が対応してくれた。ここに来て「北海道」と聞くと何故か安心した気持ちになる。
 チームの引率係がボランティアセンターの方の指示を受け、スコップ・一輪車・タワシなど必要な道具をバスに積み込み指示を受けた場所に向かった。以外にも宮古市の中心市街地にその場所はあった。
 さっそくマスクを口にあて長靴を履きバスから降りる。そして、今回ボランティア活動を行うお宅を訪ねた。家の中を見せてもらい見た瞬間、うす暗く、泥だらけの床があり、言葉でどう表現していいかさえ一瞬解らなかった。
 今日の作業は15時までにこの家の泥並びに泥だらけになってしまった家具などすべて外へ出すことだ。しかし、みんな思ったはずだ、15時までに終わるのだろうかと。
 そうこうしているうちに参加メンバーが、それぞれ道具を手に取り作業を開始した。まずは入口の泥をまとめ、一輪車に積み、トラックまで運ぶ者。奥の部屋で、家に入ってきた泥を出し、泥だらけになった家具を外に出す者。役割は様々だか、みんな真剣な眼差しで作業に取り組んだ。
 1時間して、参加メンバーの一人より「休憩しよう。休み休みやらないと持たないから。」との声に休憩をとった。このメンバーは今回の参加メンバーで最年長の66歳。元自衛官でこの手の作業については参加したメンバーの誰よりも詳しかった。
 気温は曇りのせいもあり、想像していたよりも涼しかったが室内での作業ということもあり、かなりの量の汗が流れた。水分を補給しながら参加メンバーで打合せをする。今日で全部片付けられるだろうかなどと話しながら、また作業を始めた。
 そして昼を迎え昼食をとり昼休み時間で川の方へ視察に行った。川の川横に着きあたりを見渡した。JRの鉄橋が崩れ崩壊している。川周辺に生えていた木も茶色になり枯れている。自分の足元を見てみると、津波で崩れている橋端だった。穏やかにさえ見えるこの川で、テレビで見た津波が押し寄せ、漁船や車を簡単に流し、市役所の上から撮影された光景の場所なのだと改めて感じ、同時に自然の力の大きさを感じ信じられない心境になった。
 その後、お宅に戻り作業を再開する。みんなの頑張りもあり時間内に作業を終えることができた。運び出した泥や家具など4tトラック2台分にもなった。
 家主さんの話では、首まで津波が来て動けないまでになったそうだ。話を聞くだけでも胸が詰まる。
 最後に家主さんにお礼を言われ、すがすがしい気持ちになり再度ボランティアセンターに向かった。同一の目的と参加したメンバーの緊張した意識が統一されることで、これほどの成果を上げることができたことは正直驚かされた。

田老地区視察

 初日の作業が少し早めに終わったこともあり、出発前に網走で聞いていた津波の被害を多大に受けた壊滅状態の田老地区に視察へ向かった。
 この地区は最
堅固に整備された防波堤とも言われ「宮古市田老の津波防波堤は総延長2433m・高さ10mと日本一」と地元から人が自負していた場所らしい。宮古市中心街から海岸線を北に10キロほどバスで走り田老地区に入った。右に最初に見えたもの、それは津波に流された車の山と、瓦礫の山、そして茶色に染まった木々で、車と瓦礫の山が防波堤かともいえるくらいのものだった。
 さらに進むと、どういう街だったかさえ理解ができないくらい解体撤去され街が基礎だけの平坦な場所だった。言葉が何もでない。
 海を正面に見ると、右に瓦礫と車の山、左に基礎だけの平野、正面に防波堤といった状況だ。バスから降りて防波堤に上る。そしてその下を見るとそこも建物が撤去され基礎だけになっている場所だった。防波堤を超え下に降りてみた。海岸渕にたくさんのカモメが見える。そこまで行ってみようと足を延ばした。ひどくはないが少しのゴミが流され漂流していた。後ろを振り返るとメンバーが立っている防波堤の下の壁面に奇麗に絵が広域に描かれていた。周辺を見渡すと、ここは散歩道だったことが伺える。さらに、ある基礎だけになった家の玄関だった場所と思われるところに熊の人形が置かれていた。
 いろいろなことが脳裏を駆け巡ったが、心苦しく、とても悲しくなるような場所だった。

被災地支援二日目 仮設住宅にてサロン

 7月30日二日目。この日の天気もあまり良くない。この日は前日に言われていた仮設住宅でのサロンボランティアだ。とはいえ何をするのか最初は理解できなかった。朝、ボランティアセンターに行くと土曜日ということもあって沢山の地元の高校生なども集まっていた。そして、女性ほど髪の長い全身黒の衣服をまとった男性が現れた。一目ですぐ解った。彼が有名な千葉君だ。網走で行われた事前説明会でも彼に会うといいって言っていた彼だ。
 その後、ボランティアセンターの方の挨拶があり自家引きの演奏でラジオ体操を行い、各担当部署に分かれボランティアセンターの方の指示を受ける。
 この日は、二人一組になりそれぞれの仮設住宅に隣接してある集会場に行きサロンを行う。お茶を手渡されバスに乗り込んだ。自分はチームリーダーと一緒のチームだ。
 担当の仮設住宅に着き室内に入る。畳18枚の集会場だった。仮設住宅も同じ幅で並んでいるので、ここに住んでいる方もこの集会場と同じ面積で暮らしているのだなと思った。正直、狭いし歩いている足音は響くので長期間住むとなると、ここに住んでいる方の精神的なものが心配にさえなる。
 部屋の隅には扇風機、掃除機、洗剤セットが配給セットとしてこの仮設住宅世帯分置かれていた。壁の貼られていた紙に、持っていっていない部屋番号にはチェックがしていなかったので、ここに取りに来るのだなと思った。ここの仮設住宅には12世帯の方が住んでいる。そして、しばらくして配給セットを取りに仮設住宅に住んでいる方が来た。この日の作業は10時〜15時だったが、5・6個所この対応しただけだった。後から他のチームとも意見交換をする。世帯数もバラバラでニーズも行われていることも違った。仮設住宅でイベントを行われたところもあり、その手伝いをしたチームもあった。自分の行ったところは世帯数も少なかったようだ。
 いろいろメンバーとも話したが引率係が言う。誰かがこの作業はしなければならない、その分違う人が違うボランティアをしているからこれも大事なボランティアだと。それを聞いてなるほどと感心した。ボランティアセンターに戻り明日の指示を受ける。そこに千葉君がいた。
 そして、網走から来たと挨拶を行い今日の夜の食事に誘った。

被災地支援二日目 懇親会

 千葉君に紹介された居酒屋で懇親会を行った。地元の食材がある居酒屋だ。網走のメンバーもボランティア活動の話題で花が咲く。しばらくしてから千葉君が現れた。いろいろ対応に忙しいようだ。そして、乾杯を行いいろいろ千葉君に宮古市の震災から今までの話を聞く。地震があり津波があった直後の話は本当に大変だったようだ。津波の被害にあわれた方々の話、その直後は足元に被災にあわれた方の死体もあったそうだ。
 友人知人を探す中、大嫌いな友人に会った時、生きていたことに感動し大嫌いだったにも関わらず、泣きながらよく生きていたと抱き合った話など、テレビで聞く内容よりも現実的で悲惨な内容だった。是非、網走に来ていろいろなことを網走の方にしてほしいと思い、千葉君にお願いをしたら快く受けていただいた。そして、酒が入るにつれ徐々に打ち解ける中、千葉君という人間を理解することができた。

被災地支援三日目 個人住宅の家回り泥出し作業

 ボランティア最終日は、宮古市中心街から少し離れた高浜地区にあるお宅の家の回りの泥出し作業だ。
 お宅に到着すると引率係が家主さんに要望を聞く。この家のすぐ目の前には宮古湾があり、震災直後は防波堤がすぐに開かなかったために二日ほど家の回りが海水に浸かっており魚が泳いでいたそうだ。家の周囲を見ると大量の泥が覆っていた。早速作業に入り、クワやスコップで固まった泥を掘り起こし土嚢袋に詰め、近くの空地へ一輪車に積み込み運ぶ。順調に作業の方も進み昼近くになった。裏に住む住人の方と家主さんが話をしていると裏に住む住人の方が家主さんに、ここもやってもらえばと言った。その場所は、土地の境界部分で溝になっており泥が溜まり草も生い茂っている場所で、ボランティアセンターからの指示を受けた以外の場所だった。
 引率係がボランティアセンターに電話を入れる。原則、ボランティアセンターからの指示以外のことは勝手にできないルールになっていた。ボランティアセンターから作業の承諾が出たが、まだ作業半ばにして、この場所まで時間内に出来るだろうかというメンバーがほとんどだったと思う。
 昼食を終え昼休みの休憩に入ろうとした時、メンバーの一人が土地の境界部分の溝に入り泥出し作業を始めた。そのメンバーに声をかける。すると彼は、とりあえずどんな感じかやってみますと言い、他のメンバーが後を続く。そして自分も土嚢袋を広げ、掘り起こされた泥を受ける係に着いた。昼休みが終わってもそこから脱出することができず、そのままそこの作業を担当することとなった。
 参加メンバーも大分体力がなくなってきたのか、一輪車で土嚢袋を運んでいたメンバーの一人が一輪車をひっくり返す。続いて、他のメンバーも一度だけではなく立て続けに一輪車をひっくり返していた。なんとか時間内に作業を終えることができ、土嚢袋の数は400個あまりにもなった。
 家主さんからは、本当に遠いところからありがとうございましたとお言葉を頂き、土嚢袋の前で記念撮影を行いボランティアセンターに向かった。

終わりに

 なんとか事故もなく三日間のボランティア活動が終えることができた。
 帰りは来た道とは違い、海岸線を北上した。途中、田老地区を通ったので再度立ち寄った。防波堤に上りあたりを見渡す。そして、希望を抱き復興を皆で誓って海に向かい左手を翳し記念撮影を行った。さらに北上し野田村、久慈市を通過する。ともに津波の被害を受けており田老地区のように何もない場所もあった。

 被災地支援ボランティアに参加して、これから生きていく上で多くのことを身体で感じることができたような気がする。
 被災した場所は同じ国で起きたことであり、決して他人ごとではない。もし、網走で同じことがあったらどうだったのだろうか。多くの方々が亡くなり、大切な人を亡くしてしまったその家族たちの気持ちはどうなのだろうか。そんな悲しむ間もなく、自分たちも生きていかねければならないと行動しなければならない現地の方々。
 たった三日間の行っただけでは、まだまだ解らないこともたくさんあるかもしれないが、被災された方々は、そこに住み復興を目指して一生懸命生きている。同じ国に住む者として更なる支援が必要だと感じた。
 繰り返しになるが、同一の目的とメンバーの緊張した意識が統一されることで、与えられた職務を無事に遂行することができた。今後は、この経験を活かし未来のために更なる活動を行っていきたいと思う。

 最後になりますが、今回一緒に参加したメンバーに心より感謝を申し上げ、宮古市被災地支援ボランティア活動に関する活動報告に致します。
 



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